エクリチュールの友情の輪を広げる
※YondemyではMissionとして「日本中の子どもたちへ豊かな読書体験を届ける」を掲げている一方で、Visionはあえて一つに限定するのではなく、メンバーそれぞれが思い描くこととしています。
普段お世話になっている先生が、老子によるある教えについて紹介してくださった。そして、その教えとともに、先生はとある友情についてのお話をされた。それは次のような言葉だった。「わたしは、テキストを読むという行為の中に、弱いかも知れないが一抹の光明を見いだすことはつねに可能であると信じるし、それは実際、ナチス・ドイツの支配下にあってブレヒトとベンヤミンから「柔らかい水が勝つのだ」という老子の教えを知らされ、そこに光明を見いだそうとした人々の間を繋ぐエクリチュールの友情となって、アレントの心を動かしたのだった。」このようにして、さらにアレントから先生へ、そしていささか大袈裟ではあるが、もしこう言ってよければあえて、先生から私へとこの教えが伝わった。こうしてテクストが人から人へと時をこえて読みつがれていく過程には途方もない友情があり、それをエクリチュールの友情というふうに呼ぶ。(ということをもらい受けてみる。)
これは何も哲学的なテクストに限った問題ではなく、自分が今まで読んできた本すべてに、これから子どもたちが読むことになる本すべてに当てはまる話だ。小説でも、児童書でも、絵本でも、その一冊の本を誰かが誰かに手渡し、そしてそれを受け取った誰かが、さらにまた他の誰かに受け渡す。こうして可能になっているエクリチュールの友情を、それが友情という言葉で表されるような柔らかくそして熱のある動きであることを大切にしながら、本を受け渡しつづける人々のその大きな輪の中で、実践し続けたいと考えている。
さて、ここまでエクリチュールという言葉を既知のものとして話を進めてきた。その再読可能性、遅延可能性、距離を持った広義のテレコミュニケーションであるということに注目して、やはりテクストをめぐって、そしてかつて読んだテクストを思い返したり、人に話したり、もしくはそれを踏まえて何かを書くことといった行為全体を呼び表すための言葉としてエクリチュールを用いることにする。
そうして、いま「エクリチュールの友情の輪を広げる」という言葉に立ち返ってみる。輪というのは何かを囲うものであり、そうして何かを包摂したときには同時に排除が起こっていることにも目を向けたい。今現在手を繋ぐことのできている範囲の外で、意図せずともその友情の届かない範囲にいる事物・人々(それは例えば想像の及んでいない環境にいる人々、遠い国に住む人々かもしれない)への意識を忘れないまま、どうにかこの輪を広げていくことを考えたい。
この「エクリチュールの友情の輪を広げる」に何度も立ち返り、そして再読しては、自分自身が気づいていない意味が遅れて届くようにして、何度もこの個人visionと出会い直すことを大切にしていきたい。